0203 幻の、山内清男『原始時代總説』 早傘 〔2023/06/20-20:19〕
0204 幻の山内清男『原始時代總説』 (サケマス論補遺) 早傘 〔2023/06/25-22:50〕
0205 「新日本史講座」補遺と、藤間が紹介したサケマス論 早傘 〔2023/06/28-06:24〕
| 0203 幻の、山内清男『原始時代總説』 早傘 〔2023/06/20-20:19〕〔103.5.140.145〕 |
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『日本原始文化』でも「日本先史時代慨説」でもない。 昭和20年代に刊行された『新日本史講座』(中央公論社)は、戦後初の日本史講座本である。考古学の世界では、「古代前期の文化 : 彌生式土器文化の生成」(杉原莊介 1950.08)がその1編を占めることで著名である。 実は、その講座の1編として、山内清男が『原始時代總説』を執筆予定だったことを、一昨日(6月18日)知った。 国立国会図書館のデジタルライブラリーは着々と機能を増やし、かつ、収録資料の OCR による本文データも整備されてきた。 で、”山内清男”で検索したら、雑誌に掲載された広告が引っ掛かった。1953年(昭和28年)1月の広告で、当該講座の最終配本として、山内清男「原始時代總説」他4編が配本予定とある。他4編とは何か調べると、『原始共同體論』(尾鍋輝彦)、『古代後期の産業經濟』(竹内理三)、『洋學論』(村井益男)、『資本主義時代の科學』(小倉金之助)の4編が、1953.03に発行されている。同講座の刊行経過を確かめると、時代不問で、5編分の原稿が仕上がると配本するというやり方だったようだ。年別の発行数を見ると、 年 月 合計編数 1947 12 5 1948 3,5,11 15 1949 6,8,10,12 20 1950 3,8 10 1951 2,12 10 1952 9 5 1953 3 4 計69 と、50年の春までは順調に刊行していたが、以後は、ペースダウンしている。 たぐると発刊告知を見つけた。自宅では閲覧できないので、昨日、本館に行って調査した。 中央公論1947年3月号p67 新日本史講座 【發刊趣旨】 これまで孤立的一方的だつた日本歴史を,民衆生活の發展に根を下し,世界史的立場から書き改めること―日本歴史のふるい定型の絶対的破棄―これこそ現代日本歴史學界最大の急務だ。われわれはここに,日本歴史學研究の現段階における最適最高の全智能を總結集して體系ずけ,明けゆく日本の歴史の,正しいあるべき姿を明示してて,これにこたえようとするものである。 【構成内容】 I 原始時代 4冊 �� 古代前期 11冊 �� 古代後期 14冊 �� 封建時代前期 13冊 V封建時代後期 17冊 �沙駛楴腟岨�代 18冊 【主要執筆者】 阿部眞琴 古島敏雄 服部之總 羽仁五�� 林 基 寶月圭吾 石井 孝 石母田正 伊東多三�� 井上 清 川崎庸之 駒井和愛 近藤忠義 松本新八�� 中村吉治 西岡虎之助 禰津正志 岡田章雄 荻野三七彦 小倉金之助 瀧川政次�� 竹内理三 藤間生大 遠山茂樹 豊田 武 和島誠一 渡部義通 總計67名 【第ー回配本】 原始時代總説 山内清男 「座」及び都市の發達 豊田 武 古代前期總説 西岡虎之助 ��川幕藩體制 伊東多三郎 古代後期の文化 佐山濟 封建時代後期の�閣棔 ‐湘艝動� 奴隷賤民論 瀧川政次郎 自由民權運動 井上清 (以上8冊 1凾入) 主な執筆予定者が31名挙げられている。総計67名(77冊)とあるから、ここに名が無くとも当初から執筆を依頼されていた者もいれば、その後に依頼された者もいるだろう。 マルクス史学で有名な者が多いが、いわゆる実証主義史学者も含む。とはいえ、時代名称からも、マルクス史観に立つ者が企画の中心になっただろう。 一方では、名が挙がりながら、執筆しなかった者も15名いる。専門とする時代別に分けると、 原始〜古代前期 山内清男、渡部義通、藤間生大、和島誠一、禰津正志、駒井和愛 古代後期(飛鳥以降) 荻野三七彦、川崎庸之 封建前期(中世) 石母田正、松本新八��、岡田章雄 封建後期(近世) 近藤忠義、林基 資本主義時代(近代) 羽仁五�� 執筆しなかった理由はそれぞれだろう。マルクス史観の大物が多いことからは、編集方針をめぐる分裂があったかもしれないが、わからない。原始・古代前期に多く、山内以外が執筆予定だった項目としては「アジア的生産様式」「日本民族の成立」「原始共同體論」「原始時代の社會と文化」「古墳」などが想定されようか。 ちなみに、「日本民族の成立」は長谷部言人1949.06、「原始時代の社會と文化」は八幡一郎1949.10として刊行された。1950.08に刊行される「古代前期の文化(弥生文化)」は八幡の原稿ですでに杉原が執筆予定と言及している。 刊行が停滞期に入り、ようやく第13回配本がされる52年9月、同社の書籍の巻末に見開き広告が載せられた。第13回までの各巻の構成を示すとともに、第14回の予定も示された。 1952.09 『偽らぬ日本史』巻末広告 第14回配本予定 原始時代總説 山内清男 大名領制の成立発展 豊田武 マニュファクチュア論 服部之総・岩井忠熊 資本主義時代總説 西岡虎之助 資本主義時代の科學 小倉金之助 3か月後、中央公論に刊行予告が出た 1952.12発売 中央公論 68(1)(770);新年特大號 (中央公論新社) 第14回配本 “12月下旬予定” 原始時代總説 山内清男 原始共同體論 尾鍋輝彦 古代後期の産業經濟 竹内理三 マニュファクチュア論 服部之総・岩中忠熊 *中は誤植 資本主義時代の科學 小倉金之助 2本が入れ替わった。翌号にも、その翌号にも同じ構成で予告された。 1953.01発売 中央公論 68(2)(771);二月號 (中央公論新社) 第14回配本 “兪々発売” 原始時代總説 山内清男 原始共同體論 尾鍋輝彦 古代後期の産業經濟 竹内理三 マニュファクチュア論 服部之総・岩井忠熊 資本主義時代の科學 小倉金之助 1953.02発売 中央公論 68(3)(772);三月號 (中央公論新社) 第14回配本 原始時代總説 山田清男 *田は誤植 原始共同體論 尾鍋輝彦 古代後期の産業經濟 竹内理三 マニュファクチュア論 服部之総 資本主義時代の科學 小倉金之助 3月を発行日として発刊されたのは、原則を崩し4冊だった。 1953.03 第14回配本 原始共同體論 尾鍋輝彦 古代後期の産業經濟 竹内理三 洋學論 村井益男 資本主義時代の科學 小倉金之助 「原始時代總説」と「マニュファクチュア論」は間に合わず、 代わりに「洋學論」が校了したので見切り発車ということだろう。 結果的にはこれが最後の刊行となったが、中央公論社は完結をまだあきらめていなかった。 9ヶ月後、第15回の配本予告が出た。 1953.12発売 中央公論 69(1)(784);新年特大號 (中央公論新社) “第14回(最終回)明春2月刊行” *15回の誤り マニュファクチュア論 岩井忠熊 大名領制の成立発展 小田信 資本主義時代の政治・外交 井ヶ田良治 荘園制の発達 西岡虎之助 資本主義時代総説 松島栄一 原始時代總説 山内清男 『偽らぬ日本史』で予告されていた4冊に、「資本主義時代の政治・外交」「荘園制の発達」を加えた6冊。全75冊が最終目標となった。だが、未完に終わった。 こうして見ると、「原始時代總説」は、第1回配本に予定され、そのまま、執筆が期待され続け、著者側からも断らず、最後まで刊行が期待されていたことになる。山内は『日本遠古の文化』の最新版に相当するものを、神話に代えて世間に普及したかっただろう。だから執筆をあきらめなかった。では、なぜ、公刊に至らなかったか。 たとえ執筆を進めていたとしても、新発見ラッシュが、これでよしというふんぎりをつけさせなかったのではないだろうか。岩宿で発見され、数年のうちに他地域でも発見された土器以前の文化の評価が悩ましかっただろう。土器編年においても、撚糸紋系土器の編年逆転により、撚糸紋系の中で最も複雑な構成をもつ井草式が、列島最古の土器になってしまったということは、より古い土器を予感させた。縄文末弥生初期の遺跡も発見が相次ぎ、その移行過程の解明が最先端の課題になっていた。編集側が縄文文化までの記述を期待していたとしても,山内は弥生文化に言及せずにはいられない。登呂遺跡の水田は、弥生時代の農業の様相について、山内説の再考を促していた。 撚糸紋以前の土器群の発見と編年、先土器時代末期の石器群の確認などをへて、山内なりの新たなアウトラインができあがったのは、1962〜63年頃。まさにそのタイミングと重なって編集責任者となった『日本原始美術』において、「日本先史時代慨説」が披露されることとなった。 もし、山内が見切りを付けて50年代初頭に「原始時代總説」を発表したならば、その目玉は「サケマス論」になったと思われる。八幡担当分では、生業に関する記載が簡潔である。山内の構想を知っていたからこそ、と推測する。 |
| 0204 幻の山内清男『原始時代總説』 (サケマス論補遺) 早傘 〔2023/06/25-22:50〕〔49.98.115.55〕 |
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前記事を投稿した後で、推論と近似する次の記述を見落としていたことに気付いた。 もちろん、これまでに何度も読んだことはあったが、前記事を書く際には思い出さなかった。「新日本史講座」の件を知って読むと、“沈黙を守り得たのは幸”の語句に深い味わいが生じる。 “編集後記 始め昭和7年に日本先史時代を自分なりに解釈して「日本遠古之文化」という連作を物した。その後三十余年を經て再論したのが本編である。石器時代は古い方に延長された。実のところ無土器時代の理解には苦悩した。成案を得るまで、しばらく沈黙を守り得たのは幸であった。幾多の僚友と訣別して、自分なりの解釈を続けることができた。この度は佐藤達夫との共同作業の結果である。丁度講談社の日本原始美術I縄紋式土器の編纂に携わって居たので、その第一編の冒頭に「日本先史時代概説」を加えることにした。 …(以下略)…”山内清男1969.04「(日本先史時代概説)編集後記」『山内清男先史考古学論文集 新第3集』p.135 昭和20年代の山内清男は、沈黙と見えるほど寡筆である(口頭発表は多い)。独立した論説といえるのは、「講座」の刊行予告と第一回配本の間に挟まる下記くらいである。 1947.9.1 山内�翆� 「米作と日本の祖先たち」新農芸2(6) 河出書房 45-48 この論説がこのタイミングでこの雑誌に掲載された経緯については、ある程度予想はしているが、掲載誌の全体像を確認してから検討したい。 初期のサケマス論については、縄紋時代生業の研究史に関するメモから転載しよう。 ■初期のサケマス論 1947 “縄文文化の主食の問題特にサケ,マスについては,昭和22年頃から座談では触れたことがある。公開の席上では武蔵野博物館の第一回談話会で講演した(昭和24年)”「日本先史時代概説 �憩貶玄以顕� 注7」『日本原始美術1 縄文式土器』p144 1948.4.17 ? この日に“原始文化研究会例会、武藏野文化協会共催で武蔵野博物館にて第一回談話会「亀ケ岡文化サケ・マス論」を講演”と『画竜点睛』にはある。だが、武蔵野文化協会発会式は1948.7.6 (武蔵野31(1) p42)。1949年までの協会消息に山内の講演の記録は見当らない。 1948.07 藤森栄一『石器と土器の話』蓼科書房スクール文庫 “信濃川など、奈良・平安時代のころは上流まで全国一のサケやマスの産地だったのですから、石器時代にはとても水量は豊富で漁獲もすばらしかったに相違ありません”(p144) 上記の山内の講演が裏付けられなければ、縄紋時代のサケマス漁獲の意義を説いた初出となるかもしれない。ただし、内陸部でも漁撈があったという程度であり、東日本縄紋文化の性質を決定する重要な要素とまでは扱っていない。 1949.6.26 山内�翆砲�サケ・マス論について講演 “井之頭自然文化園の原始文化研究会に出席する。甲野さんの話(途中から)と山内さんの鱒の話”酒詰治男編 2013『酒詰仲男 調査・日録 第9集』東京大学総合研究博物館標本資料報告第96号 (p10) *奥付なく、刊行日不明。武蔵野博物館(武蔵野郷土館の前身)は当時、井之頭自然文化園内に所在していたから、山内の記述と合致する。なお、この記述に最初に注意したのは長山明弘氏であろう。 1949.10.29 山内�翆砲�日本考古学協会第4回総会で「縄紋式文化終末期の状勢」を発表 この発表について2人の証言がある。 “山内清男氏の説かれる "貯蔵食品としての鮭、鱒が遡上する河川の南限と、亀ヶ岡式の卓越地域との関連" ”“山内清男氏の日本考古学協会昭24秋総会講演による”坪井清足 1953.5「福島県天王山遺蹟の弥生式土器−東日本弥生式文化の性格−」『史林』36(1),50-63 (p61,注19) “縄文式文化から弥生式文化への推移転換が、遠賀川式土器の分布した西日本と晩期縄文式文化の伝統の強力であった東日本において、時期的には西日本がはやく東日本でおくれた、傾斜現象があり、そのような傾斜現象の理由として、貯蔵食料の差異すなわち西日本の米と東日本の鮭・鱒との差異が、山内清男氏により示唆されている(昭和24年秋の日本考古学協会総会研究発表による)。”(澄田正一1955.1「日本原始農業発生の問題 ―美濃・尾張の先史考古学的研究―」名古屋大学文学部研究論集XI, pp.87-110 (p107) 1950.11 芹沢長介が山内清男のサケマス論の概要を紹介 “なお,山内清男氏は東北地方の縄文式文化発達の大きな要因として鮭・鱒の豊富な漁獲を考えている。氏の説によれば,東北日本の石器時代人は北アメリカ西海岸の土人のように長い間鮭・鱒を主食にしていたのではないかというのであるが,まだその確証はあがつていないにしても傾聴すべき説であろう”芹沢長介,1950.11,,『古代土器標本解説書・第二集 後期・晩期縄文式文化』ドルメン教材研究所 (pp.24-25) *この段落だけでは時期を限定していないように見えるが、p22には“関東から北にかけて,殊に東北地方に縄文式文化の最高の繁栄が見られたということもこの自然の与える食糧を無視しては考えることはできない”とあり、亀ヶ岡文化を意識しているとしてよい。 1951.09 藤森栄一が間接情報としてサケマス論に言及 “後・晩期には … 山岳地帯でも不思議に、河岸へ水辺へと移動する例が多くなった … 山内清男氏の談話発表のうちに鮭鱒の遡上による新しい共同漁撈をもって理由づける意見を仄聞しているが … ”藤森栄一,1951.09,「大化以前の歴史と考古学」『日本歴史講座 第2巻 』河出書房, 84-107 (p93) 整理しよう。 高橋龍三郎が推定するように、また、稲生典太郎の回想から、山内は戦前に、すでにサケマス論の原型となるアイデアはもっていた。 「ぬか喜び サケマス論研究史重要文献」 http://hayakasa.na.coocan.jp/bbs/godhand.cgi?df=kouzi.log&keyno=0200 裏付けは取りにくいが、“昭和22年頃から座談では触れたことがある”と、「原始時代総説」(以下「総説」)の執筆を依頼されたこととは関連付けられるように思う。 「総説」の構想を練る中で、企画側が期待したであろう各時代の経済的基盤の重要な要素として、サケマス論を展開することとし、座談を通して反応を探ったのではないか。 藤森1948は中学生向けに書かれたものだが、山内がすぐに目を通した可能性は高い。山内サケマス論のような射程を持たないものの“漁獲もすばらしかった”という記述は無視できない。山内が、座談を仄聞しての盗用を疑ったか、藤森の直感を恐れたかはわからないが、自らの見解を公に示す必要を感じ、翌年の講演につながったのではなかろうか。 サケマス論の展開は、終戦直後に簇生した縄紋農耕論への批判でもあった。後藤守一(稲作以前雑穀農耕説)や甲野勇(大湯ストーンサークル農耕文化所産説)が深く関わっている武蔵野博物館を会場としての講演である点が意味深く思える。 サケマス論の活字での紹介としては、座談、原始文化研究会、日本考古学協会総会のいずれでも聞いた可能性がある芹沢長介1950が最初と思われる。東日本縄紋文化の特性とする評価は、坪井・澄田の紹介と一致する。 古代土器標本作成にも関わり深かった藤森が、その1年後に言及した。遺跡の占地の変化と関連付けている点、共同漁撈という言葉が用いられている点が、他者と異なる。1949年の発表に既にそのような要素が含まれていたのか、その後に山内が論点を追加したかは定かでない。 遺跡占地からの後・晩期サケマス論は江坂1957でも論じられている(ただし、山内の名は出していない) (p65)“東日本の後期の後半から晩期の時代の遺跡が,鮭や鱒などの遡行する河川の屈曲点にあるのは,それらの漁獲が非常に重要だったからであろう”(p45) “晩期の集落の多くは,漁業に関連して選定したと思われる場所に非常に多い.海岸線が長く,魚貝類の豊富な海岸の台上は,もちろん鮭や鱒が遡行する河川の沿岸などの,魚族の捕獲しやすい場所に大聚落の址が多く残っている”江坂輝弥1957『考古学ノート 先史2 縄文文化』 他にもサケマス論は後・晩期東日本を解釈する論だとする紹介は多く、それが初期のサケマス論としてよい。 しかし、縄文時代の人口を検討する中で(1956年の講演で言及)、より古い時期から東日本は西日本の数倍の遺跡を数える説明にもなることから、対象時期は広がっていっただろう。 そして、縄紋草創期の設定などを經て、大塚達郎氏が指摘するように、縄紋文化の母体が渡来する要因の説明にまで拡張した。 大塚達朗2016「消費される縄紋文化」物質文化(96), 89-110 その結果、サケマス論の意義は大きく変容した。 これに関して“沈黙を守り得たのは幸であった”かはわからない。 |
| 0205 「新日本史講座」補遺と、藤間が紹介したサケマス論 早傘 〔2023/06/28-06:24〕〔119.240.195.193〕 |
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新日本史講座に関する告知を2つ追加する 1947.06「新日本史講座」中央公論 62(6)(700) (中央公論新社),p29 発刊告知から3ヵ月後に出た広告で、予定題目の一覧が示された。 各時代の総説・政治外交・産業経済・宗教・文化のほか、特論が51題目示され、 全11巻、各巻約8冊、総計80余冊という。 6つの時代に分けられているから共通5テーマで30冊(原始時代には無理な題目もある)、今後追加される特論も見込んで80余りという目算だろう。第1巻は8月刊行予定ともある(内訳は無し) 原始時代に関する特論では「生成期の日本民族」というのが当初予定していたタイトルだった。 次の書籍の巻末広告では“15回近刊”とある。14回配本から5年過ぎても(建前として?)未完扱いだった。 1958『ロシア・ソヴェート文学史』 多数のマルクス史学者が執筆予定を辞退した理由の一端は、次の記事が参考になる。 1979.05 松本新八郎(語り手)「『社会構成史体系』前後」歴史評論(349), p65-71;83 民科(民主主義科学者協会)が設立されると、運動を強化するため、1947.04に松本新八郎が上京した。松本の生計のため日本評論社の嘱託を斡旋したが、これは、戦前の『日本資本主義発達史講座』のリニューアルとしての『社会構成史体系』を企画・発刊するためでもあった。その編集委員10名は次のとおり。 渡部義通*、平野義太郎、大塚久雄、石母田正*、倉橋文雄、高橋幸太郎、藤間生大*、林健太郎、林基*、松本新八��* *を付けた5名が、新日本史講座の当初執筆予定でありながら執筆しなかった。さらに、藤間、石母田、林基は、大系の1冊を執筆した。50年9月の構成予定表では、渡部、松本も執筆予定者に挙がっている。和島誠一も「原始社会」を執筆予定とされた。 藤間は『政治的社會の成立』1949.4 を執筆した。狩猟採集経済(縄紋文化)から書き起こし、三森定男の原始農耕説にも言及し、亀ヶ岡式文化の歴史的評価にも多くの行を費やしたが、サケマス論は登場しない。1948年初講演説が誤りならば山内が発表する前だから当然ではある。藤間は亀ヶ岡文化について漁撈の発達とか、蓄積があったが階級は生じなかったなどと述べており、また、東北縄文文化のアスファルト使用について山内から聞いたとも記している。サケマス論を耳にしていた可能性もうかがえる。 内容が酷似し、実質的に前書の改訂版といえる 1951.11『日本民族の形成 : 東亜諸民族との連関において』岩波書店 には、興味深い記述がある。 “東の方が西よりも人口が多かった理由として、山内清男は次のような重大な示唆を私にあたえられた。それはサケやマスが当時の東日本の川でたくさんさかのぼっていたので、漁獲に便利であったというのである。そしてこうしたことは中部地方の木曽川あたりまでそうであったらしいのである。”(p14) 亀ヶ岡文化の説明というよりも縄文文化の東西差の説明として紹介されている。それを踏まえて 藤間1949.04 を読み直すと、次のような記述があった “東日本と西日本の気温の違いは、食物貯蔵の上に、なんらかの影響をあたえたであろう。こうしたことが、後述するような縄文式文化が東北・関東で盛えて、近畿を含めた西日本において、大して発展しなかつたことの、一つの理由ともなるのではあるまいか”(p18) サケマス論を耳にしていての記述とも読める。そうでない場合は、このような記述に触れたことが、同年6月のサケマス論講演の動機のひとつかもしれない。 |